同窓生の活躍

命ある限り何があっても乗り越えられる
<令和6年能登半島地震同窓生被災者体験談>

2024年1月1日午後4時10分 能登半島にM7.6の地震が発生。家屋倒壊や火災などで多くの方が被災しました。地震から半年が経過しましたが、今なお多くの方が避難生活を強いられ、復旧には至っていません。

今回ご紹介する梅澤慶臣(ヤスタカ)さん(10期・機械)はまさに能登半島地震で被災した当事者です。

梅澤さんは現在、学校法人日本航空学園の特別顧問を務められています。同校は山梨県甲斐市、北海道千歳市、石川県輪島市にキャンパスを設置していますが、今回の地震で輪島市の能登空港キャンパスが甚大な被害を受けました。

復旧の見通しが立たないことから、明星学苑青梅校(明星大学青梅キャンパス)に緊急避難し、4月より授業を再開しています。

ご自身が被災された時の状況や被害を受けた学校の対応などを中心にお話を伺いました。

― 被災された時の状況を教えてください

元日はちょうど輪島にある妻の実家に挨拶に行っていました。そろそろ夕飯の準備でもと思っていた時にドーンと。同時に家の梁が落ちてきて家が崩壊しました。

私は和机の下に隠れて頭は打たなかったのですが、右腕が挟まれて2時間ほど身動きが取れない状態でした。娘は隣の部屋にいましたが、やはり和机の下に隠れて助かりました。妻は梁が腰に落ちてきて骨折。救出された時は畳を担架代わりにして運ばれて行きました。

右腕は挟まれた状態でしたが、携帯電話を首からぶら下げていたので、なんとか119番に通報できました。とはいえ当然いろいろなところから通報があるので、すぐに救急車が来るわけがありません。家を囲んで近所の人が助けに来てくれているのは分かるのですが、「津波が来るぞー!」といった声で一時周りから誰もいなくなってしまいました。

右手に感覚はなく、もはや腕を失ったと思いました。意識が段々もうろうとなって2時間あまり。自分がどうしていたのか、どうやって助け出されたのか今でも思い出せません。

この晩輪島一帯が大火災となります。私が助け出された頃には既に川向うの家が3~4軒燃え始めていました。

2時間ほどで助け出されたのは早い方ですが、かろうじて指が動いたことから緊急性が低いと判断され治療は後回しでした。

幸いにも今は身体的な後遺症はありませんが、その一方で精神的なショックからはまだ抜け出ていないところもあります。

例えば、本校が明星学苑青梅校(明星大学青梅キャンパス)への緊急避難が決まり、東京に出てきた時のことです。
車も随分汚れていたので能登では使ったことがない洗車機を使ってみました。
車の中にいたら突然ザーっと大量の水や洗剤が吹きかけられて、前が見えなくなった。バタバタとブラシが当たる音、水滴を飛ばすための強い風の音……。

地震の時はもう何が何だか分からない状態で記憶が飛んでしまっているところもありますが、車の中で突然言いようのない不安な気持ちに覆われました。

崩壊した実家 ここに閉じ込められた

― 学校も甚大な被害を受けたのですね

正月なので学生・生徒が居なくて本当に良かったです。右手は動かないままでしたが、とにかく学校がどうなっているのか心配で、親戚が車を出してくれたので2日に学校を見に行きました。校舎そのものは鉄筋で頑丈に作られていますが、設備の方が大きな被害を受けていました。例えば水道やガスが通じない。地下に埋まっているはずの浄化槽が地上に出ているなど、もう学校が再開できるような状態ではありませんでした。

ご存じのように道路は寸断され、さまざまな交通規制が行われていました。そのような中をかい潜って山梨から兄(梅澤重雄 日本航空学園理事長)が車で駆けつけてくれました。

― 学校が奥能登地域の復旧・復興における一大拠点になりました

本来、救援隊や救援物資は陸・梅・空から来るはずです。しかし、陸は道路が寸断し、海は地盤の隆起で港が使えず、能登空港は早々に閉鎖され使えません。

キャンパスに隣接する能登空港では、帰りの飛行機を待っている人や見送りの人たちが取り残されました。学校には1000人の学生・生徒が3日間暮らせるように9,000食の非常食と水が確保されています。先ずはそれを空港に提供しました。

次に自衛隊のヘリコプターが離着陸できるように、また消防署や自衛隊などの緊急車両が駐車できるように本校のキャンパスを開放しました。その結果100台以上の車両が集結するなど、本校が災害対策本部として奥能登の復旧・復興における一大拠点になりました。

― 明星学苑青梅校(明星大学青梅キャンパス)が緊急避難先となりました

キャンパスの復旧に目途が立たない中で教育を止めないためにはどうしたら良いのか、これが何といっても最重要課題です。コロナ禍の影響でオンラインの授業も行っていたので当面はこれを続けよう。しかしこのままでは学校が再開できません。

緊急避難先については理事長が精力的に探しました。しかし、使用可能な学校等の施設を探してもニーズに合う物件は見つかりません。

本校は大学校、高等学校ともに全寮制を基本としています。高等学校は自宅通学も可ですが、全体の1割もいません。能登空港キャンパスでは約1,000人(大学校400人、高等学校600人)の学生・生徒が学内で生活しています。これが通学制の学校だったら大変なことになるのですが、本校では学び舎が遠い所に避難しても学生たちやご家族にとって大きな問題にはなりません。

そこで理事長が小池百合子東京都知事に掛け合ったところ「ある私立大学で今は使用していないが、いつでも使用できる状態のキャンパスが青梅にある」と紹介されたのが母校・明星大学の青梅キャンパスだったのです。

理事長は明星大学の心理・教育学科(8期)の卒業生です。青木秀雄同窓会長(当時)(同学科3期)とは旧知の間柄。青木同窓会長に学校の事情を話したところ、管轄する明星学苑(吉田元一理事長)にすぐに連絡していただくなど多大なご協力をいただきました。
このような経緯で明星学苑青梅校を緊急避難先として使用する事が決定しました。
今は感謝しかありません。

昼食時の青梅キャンパス学生食堂(日本航空学園の学生・生徒)

キャンパス内に急ピッチで学生のための宿泊施設を設置し、おかげさまで何とか4月から授業を再開する事ができました。その頃にキャンパスの桜が満開となり、あまりの美しさに学校のドローンで空撮しました。

 

― 明星大学と日本航空学園(※)の絆

先代の理事長である父(梅澤義三)が明星学苑児玉九十先生の教育に共鳴していたことで、兄と私は明星大学に入学しました。兄は教員免許を取るために心理・教育学科。私は元々機械が好きだったということで機械工学科に入りました。兄の次女で、山梨にある日本航空高等学校佐藤美文校長も心理・教育学科の同窓生です。また浅川正人日本航空大学校学長も電気工学科出身です。その他、職員の中にも明星大学出身者が多数働いています。

※学校法人日本航空学園
山梨県甲斐市に法人本部を置く学校法人。昭和7年、官立乗員養成所(航空整備士の陸海軍委託要請機関)としてスタート。
設置校として、北海道千歳市に日本航空大学校北海道と日本航空高等学校北海道(新千歳空港キャンパス)、山梨県甲斐市に日本航空高等学校山梨と日本航空高等学校附属中学校、日本航空高等学校(通信)(山梨キャンパス)、石川県輪島市に日本航空大学校石川と日本航空高等学校石川(能登空港キャンパス)がある。日本航空高等学校石川は2024年春の甲子園大会に石川県代表校として出場した。(同学園Webサイトより抜粋)

― 話しは変わりますが、色々な資格をお持ちとか

私は元々機械が好きで小学生の時からバイクをいじったりしていました。それで大学は機械工学科に入りました。大学時代から資格取得に励むようになり、現在に至るまでに覚えているだけで30以上の資格を取得しました。
大学ではフォークリフトの免許から始まって少林寺拳法の3段も取りましたよ。ええ、冗談ではなくて(笑)

日本航空学園で働き始めてからは、学生たちに教えるにはどんな資格が必要かを考えて、例えば無線の資格とか、飛行機を作るのに必要なガス溶接、クレーン、単発飛行機の免許やパラシュートの資格なども取得しました。アメリカでは航空整備士のライセンスも取得しました。

意外に思われるかもしれませんが実のところ私は高い所は好きではありません。しかし自分で動かしている飛行機は全く怖くありません。自分の命を守るための動きをすることに神経が集中しているので全然怖さを感じないのです。

― 大切なのは「人間教育」

その飛行機は大小の部品が組み合わさって初めて空を飛びます。また関連する法律や規則もたくさんあります。小さなネジ1つ、規則の1つをおろそかにすると大きな事故に繋がります。

社会人となって仕事で信頼されるためには、学力や技術力があるだけでは不十分です。
例えば、きちんと挨拶する、指示された仕事はやり遂げる、もしできなかった場合はここまでやりましたと報告する、小さなネジ1つ取扱いをおろかにしない、そして規則は必ず守る。

こうした基本的なことを一つひとつ積み重ねて初めて仕事を任される。しかもその仕事は高い道徳観や倫理観に支えられていることが大切です。

私たちが目指すのはそうした道徳観や倫理観を持った人間の育成です。幸い本校は日本を代表するような多くの企業から高い評価をいただき、強いつながりを持っています。多くの卒業生がそれぞれの分野で人間性を発揮し、活躍してくれている結果だと思います。

― これからの自分

本校と明星大学の関係について考えると、自分が明星の同窓生だということもありますが、将来的に本校と明星大学の強みを生かすような関係を築くことができたら本当に良いなと思います。

例えば明星大学にCA(キャビンアテンダント)になりたい、GS(グランドスタッフ)になりたいといった学生さんがいれば本校で面倒を見ると言ったような……。まだまだ具体的ではありませんが、その時は私が窓口になって先頭に立ちたいと思っています。

私は間もなく古希を迎えます。本当はとっくにリタイヤして良い年齢なのですが。
実は昨年は大病を患い入院しました。でも今は寛解しています。
今年は元日早々、大地震で被災しました。本校の生徒や教職員は全員無事だったので私が代表して被災した格好です。でも今こうして生きています。

物質的にあれが燃えた、無くなったと言ってもまだ命があるから良いじゃないか。命ある限りこれから何があっても乗り越えられる、今はそんな気持ちでいます。

 

2024年4月20日 明星学苑青梅校会議室にてインタビュー

梅澤慶臣(ウメザワ ヤスタカ)

10期(1977年3月)理工学部機械工学科卒学校法人日本航空学園特別顧問

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