映像の世界で輝き続けて
映像の世界で輝き続けて
本日は、理工学部物理学科3期生の高嶋芳男さんにお越しいただきました。卒業後は、長年にわたり映像の世界で活躍され、今でも好奇心を持ち続けキラキラと瞳を輝かせる高嶋さん。開学間もない明星大学日野校のお話、そして映像技術や映画作品についてのお話を伺いました。
開学間もないキャンパスで過ごす
― 理工学部物理学科のご出身ですね。
子どものときから科学と映画が大好きで、タイムマシンやUFO(未確認飛行物体)にものすごく興味がありました。物理学科に進んだのも、いずれタイムマシンを作ることができるだろうと考えたからです。
― 明星大学を選ばれた理由を教えてください。
高校生の頃は文京区で生活していて、国文学の三島中州が創設した二松学舎大学附属高等学校に通っていたのですが、二松学舎大学には理系の学科がなく、先ほど言ったようにかねてから物理に興味があったため、当時開学間もない明星大学を選びました。多摩の丘陵地帯に開設されたばかりの明星大学は、1960年代ですから本当に山のなかの大学といった印象で、前も後ろもハイキングコースがつながっていました。
他県など出身の学生たちは「東京の大学」と勇んで上京してきたのに、印象が違うと不満を口にする人もいましたが、東京生まれ東京育ちの僕にはかえって新鮮でした。文京区の自宅から大学まで1時間以上かかるので、通学は大変でしたが…(笑)。
キャンパスに集まった人たちには「新しい大学を自分たちでつくる」という気持ちがあったと思います。歴史のある大学だと、伝統に縛られたり、多くの先輩方の影響を受けたりするのでしょうが、新設の大学では縛りは皆無。学園祭から何から、まさに全部自分たちの手でつくっていくおもしろさがありました。
開学時の日野キャンパス
― 大学時代には射撃の免許も取得されたそうですね。
僕は地学研究部に所属していたのですが、射撃部の友人が弾を撃った時の、空気を切る音がとても新鮮で、すっかり魅せられてしまいました。今はもう全部返納しましたが、大学卒業後も、免許を継続するため年に一度は射撃場に通っていました。僕は生き物を殺すのは嫌いなので、もっぱら標的射撃です。
地学研究部に所属(卒業アルバムより)
映像の世界に
― 大学卒業後は映像の世界に進まれました。
大学を卒業するにあたり、大学院に進学して研究するか、どうするかちょっと悩んでいたときに、新聞に載った「科学映画会社が研究員募集」という三行広告を見つけました。ヨネ・ プロダクションという会社です。
この会社は、肺結核が不治の病と恐れられていた時代に、顕微鏡下で結核菌と白血球の闘いをとらえて世界を驚かせ、1958年のベネチア記録映画祭グランプリほか国内外の映画祭で10以上の最高賞に輝いた科学映画「ミクロの世界」の主要スタッフが、1967年に小林米作氏を代表取締役として、米作氏のヨネを冠にして創立されました。
今日まで独自の生命科学映像のノウハウを蓄積し、特に生体顕微鏡撮影と顕微鏡微速度撮影は世界に誇れる技術を培ってきました。新聞広告の出た1970年の採用試験にはものすごい応募があったようですが、当時、大学卒がほとんどいなかったこともあって、めでたく採用されました。
当時、ヨネ・プロダクションは五反田にありました。その頃は、35ミリのフィルムで撮影していたのですが、東洋現像所(現IMAGICA)は本当に歩いてわずか数分のところにありましてね。今日撮影したものが、翌日試写を確認できるという好環境でした。
ヨネ・プロダクション時代の高嶋さん (ヨネ・プロダクション提供 後列中央)
ちょうど僕が入社したときには「脳と潰瘍」(1971年)という作品をつくっていました。現在では胃潰瘍の原因はピロリ菌だと言われていますが、当時、「脳の視床下部の刺激によって胃潰瘍ができるのではないか」という仮説があり、それを実証するために動物実験を行い、撮影をしていました。
「スキンカラー」1974年より ©ヨネ・プロダクション
ですから、入社当時は顕微鏡の素材を作るためにプレパラートを拭く作業に追われる日々でした。顕微鏡で撮影するのにわずかでもゴミがあっては映像が台無しですので、毎日何枚ものガラス磨きに追われたことが思い出されます。
1974年に公開された「スキンカラー」には「実験 高嶋芳男」とクレジットが入っています。この「スキンカラー」がきっかけとなり、その後、皮膚の化学や紫外線の影響や毒性の研究について、大学の皮膚科の先生方と一緒に撮影に明け暮れることになりました。
ヨネ・プロダクションの生体顕微鏡撮影と顕微鏡微速度撮影の技術は、クライアントの基礎研究における新治験および医薬品プロモーション等、様々な映像に使われています。このような特殊な映像は今日、TVの医学健康番組でも頻繁に利用されています。
ヨネ・プロダクションを退職してからも博物館の展示映像や劇映画、短編映画に関わってきました。短編映画を研究する勉強会が毎月第3木曜日にあって、そこで意気投合した映画人たちとスタッフを組み、1年余りものすごくハードな撮影をしたこともあります。
破天荒な監督たちと付き合ったり、機材を車に積みこんで制作から上映まで、全国を行脚する興行も経験しましたし、大雪に見舞われたり、爆発や火事に巻き込まれそうになったり…。吹き出す炎から必死になって逃げたけれど、もうちょっと遅かったら我々も死んでいたかもしれないという体験もしました。映像に関わる仕事で、気の合う仲間に声を掛けられたらつい動き出してしまう、という感じでやってきました。
― ドキュメンタリーのお話もお聞かせください。
2004年公開の「こんばんは」という夜間中学の作品ですね。山田洋次監督の「学校」シリーズのモデルになった見城慶和先生が講談社の吉川英治文化賞を受賞されて、ドキュメンタリーを撮るお手伝いをすることになりました。見城先生の勤務先である東京都墨田区立文花中学校の夜間学級にカメラを持ち込んで、ある少年が夜間中学に入ってきてから卒業するまでの4年間を、4台のカメラで完全記録した森康行監督の作品です。
作品をインターネットで見ることができないのが残念ですが、90歳から15歳まで15人ぐらいが1クラスにいて、生徒たちがひたむきに学ぶ姿と、世代と国籍を超えて親交を深めている様子をありのままに自然な映像としてとらえていると、大きな評価を受けました。(※最終頁に受賞歴)
©須田登美雄
当時、昼間学級の女生徒が交流授業で夜間学級に来ていて、後に感想を聞いたら、「昼の授業が退屈でつまらない訳じゃないけど、夜は発見、ひらめきがある」という素晴らしい言葉を残してくれました。僕も授業がこんなに楽しいということを生まれて初めて経験しました。
夜間中学では、先生が一方的に教えるのではなくて、あることについては生徒の方が詳しくて、教える立場がおのずと入れ替わることもあります。昼間学級の効率重視の詰め込み式とは違い、教室の中で自然に行われる生きた知識のやり取りを見ていて、ものすごく勉強になりましたし、学ぶことの楽しさや喜びを「こんばんは」を通して痛感しました。この生きた知識のやりとりを、どうにかして昼間の中学校に活かせないものかと、撮影している4年間ずっと思い続けていました。
― 「ありのまま」を描くのは大変なのでしょうね。
「こんばんは」がありのままの自然な映像となり得たのは、撮影前に1年近く教室に同席して生徒と先生双方との交流を重ねたからです。
ドキュメンタリーは本音を引き出せるかどうかが勝負です。「三里塚」シリーズで知られる日本のドキュメンタリー映画の草分け的存在で、山形国際ドキュメンタリー映画祭の生みの親でもある小川紳介監督(1935~1992)も、最初に山形に行ったときには、カメラを置いて農業を始めています。一緒に汗を流し、近い関係になって初めてカメラを回している。本当に心から友人になって、初めて本音で語ってくれるから、カメラが回っていてもありのままの姿が撮れるのです。
1989年に始まった山形国際ドキュメンタリー映画祭は2年に一度10月に開催されていて、僕はほぼ毎回参加していますが、以前、九州から見に来ている年配の女性がいらしたので、「なんでわざわざ九州から?」と尋ねたら、その方に「ここに来たら世界の縮図が見える」と言われました。なるほど、どこの国にも一般には知られていない問題が山ほどある。ドキュメンタリーって、確かに世界の縮図ですよね。
私の映像原点と最新技術
― 映画のお話は尽きませんね。
子どものころから映画が好きで、小学生のときには、そろばん塾に通うそぶりで、途中にあった映画館に通っていました。映画は毎週毎週変わるから、何としても見に行きたい。お小遣いをためて通うのですが、たとえ何十円でも小学生だとキツイんです(笑)。
親が写真をやっていたので、うちに暗室もありましたし、写真や8ミリフィルムには小さなときから馴染みがありました。中学校のときに卒業制作として8ミリフィルムで撮ったのが映画としてはいちばん最初かもしれません。
この頃撮影に使っていたのは父親の8ミリ撮影機でした。ヨネ・プロダクションでは35ミリフィルムで体内世界の映像化に挑み、「こんばんは」は16ミリフィルムでの撮影です。いま映画というとリアルな臨場感が味わえるIMAXシアターが人気ですが、このIMAXに使われているのは70ミリフィルムです。
70ミリフィルム3コマ分を従来の垂直方向ではなく、横方向に送ることで、3コマ分を1コマとして使用し、巨大画面に上映しています。奇しくも、このIMAXは、僕が明星大学を卒業した1970年、大阪で開催された日本万国博覧会(大阪万博)で、世界に先駆けて初上映されています。
フィルムからデジタルへの移行が進み、いまや携帯電話で劇場作品が撮影される時代ともなりました。4K、8K、16Kと高画質化も進んでいますが、めまぐるしく進歩する映像技術に限らず、映画には常に驚きと感動があります。これからも映像の世界で楽しみ続けていきたいですね。
― 本日は、いろいろ興味深いお話をありがとうございました。最後に高嶋さんの今後の活動について教えてください。
現在は、ほぼボランティアで各国の大使館と日本の幼稚園の交流をアシストしています。この交流にも驚きと感動がたくさんあります。出会う人、見るもの、聞くものにいつでも反応できる自分でありたい。アンテナを張って、面白そうなことには素直に面白がることのできる自分であり続けたいと思っています。
2024年12月5日
20号館518会議室にてインタヴュー
高嶋 芳男(たかしま よしお)
3期・物理学科(1970年3月卒業)
元 明星大学同窓会理事
※「こんばんは」≪受賞歴≫
第9回 平和・協同ジャーナリスト基金
基金奨励賞
キネマ旬報2003年度ベストテン
文化映画第1位
日本映画ペンクラブ賞
日本映画ノン・シアトリカル部門第1位
第58回 毎日映画コンクール
記録文化映画賞
高知オフシアターベスト10
日本映画部門 第1位
第一回文化庁映画賞
文化記録映画大賞
第13回日本映画撮影監督協会 J.S.C賞