明星会からのおしらせ

滔々(とうとう)と流れる川のように

みなさん、こんにちは。1970年卒業の藤林一郎です。

1966年に明星大学に入学した私は、ワンダーフォーゲル部に入部しました。今思えば、ワンダーフォーゲル部に入ったことが、その後の私の人生に大きな影響を与えたのです。その時のメンバーとは「1966年の会」を結成し、55年経過した今日まで交流を重ね、毎年国内旅行を企画し集まっています。今回は私の卒業後の話をしたいと思います。

仲間の縁で就職・結婚、そして、企業の立て直しへ

私は神奈川県出身ですが、1970年に明星大学を卒業後、ワンダーフォーゲル部の仲間の縁で長野県の冨士工業に就職後、翌年には冨士工業の社長の三女と結婚しました。

結婚一年目の1973年のこと、山形県にある設立二年目で行き詰まっている企業の再建の話が舞い込みました。社長曰く、女の子しか育てた経験がなく、しかも社長自身が技術者で帝王学の伝授などできないが、この行き詰まった企業の再建が経営者になるために大変勉強になると思うので、やってみないかと社長から打診されたのです。

私は、意を決し単身で山形県長井市にある株式会社トップパーツという資本金500万円、従業員7名、赤字4,000万円の電子部品の会社に赴任しました。トップパーツは地元に男子型企業が少ないということで、市長の肝煎りで地元の企業5社が100万円ずつ資金を出し合い設立した会社でしたが、当初、地元コンデンサーメーカーへの部品生産販売をしていたものの、翌年のニクソンショックにみまわれ経営が行き詰まっていました。

着任後、冨士工業開発の部品生産・機械を持ち込み、大手コンデンサーメーカー各社へも売り込みを図るなど経営努力を重ねた結果、10年で累積損失を一掃することに成功。さらに、20年で冨士工業本社売上を上回り、遂に冨士工業社長も任されることになったのです。

1972年には台湾に設立した合弁電子部会社をマレーシアへ独資で移設し、台湾合弁法人を台湾パートナー中心で葬儀墓園会社へ転換させました。その台湾法人は後に龍巌という社名で上場企業へと成長を成し遂げました。さらに2001年のこと、中国蘇州法人を設立、2016年には2010年設立の胡蝶蘭事業会社(台湾法人龍鼎)を買収したのです。

ここまで淡々と書き連ねましたが、この間も山あり谷ありで、共に頑張ってくれた周りの協力があってこその結果であることは言うまでもありません。

成長した会社を次世代へ継承

2020年度には、冨士工業(長野県)・トップパーツ(山形県)・トップパーツマレーシア(マレーシア)・蘇州トップパーツ(中国)・龍鼎(台湾)5社でグループ売上100億超へと成長したことを機に、次男の祥朗が、冨士工業・トップパーツ・トップパーツ蘇州の3社の社長に、三男である朗(明星大学40期)が龍鼎・トップパーツマレーシア2社の社長に就任。

そして、2020年には冨士工業創立75周年を迎えることができました。若いツートップが力を合わせ、流れを見極め、流れに載って100年企業の仲間入りを果たしてもらいたいと願っています。

為替レートも、かつて1ドル=360円であったのが2011年には75円まで円高が進み、世の中の流れは大きく変化しました。この流れに乗ってグローバル化を進め、このコロナ禍にあってもお客様からは、グループのBCP(事業継続計画)がしっかりしていると認められ、従来以上に信頼をいただいております。

出典:MONOist『日本は本当に「貿易立国」なのか、ファクトに見える真実」より

世の中の流れを見極めよ!

今、大学で学んでおられる学生諸君は、コロナ禍で苦しんでいると思いますが、少子高齢化、世界一の借金大国、マイナス金利、脱炭素、再生エネルギー、自動車のEV化、など、大きな流れがある中、それらを見極め、流れに乗っていってほしいと願っております。

 

1970年卒業(3期)
理工学部機械工学科
藤林 一郎

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