「24時間戦えますか?ビジネスマ~ン♪♪」から北の大地で小学校教諭となるまで。
大学在学中からライダーです
1989(平成元)年に人文学部社会学科へ入学、1993(平成5)年卒業(26期)の松田聡です。卒業後は「子ども用品メーカー」で営業一筋。ある日、「教諭になりたい!」と心が芽生え、でも在学中は教職課程を一切履修しておらず、だから教諭となるまでの波乱万丈と人生の大胆な方向変換による生き様を、在学生の皆様へ「人生いろいろ」の参考で伝授できれば嬉しいです。
【明星大学への入学は人生のご縁で運命だ!】
卒業アルバムより
自分は中学・高校とミッション系大学付属の出身です。大学では「社会学」を学びたいと考え、高校3年生の時、系列大学の進学説明会へ参加した際、説明内容に対して主観的な反感を持ち、スパッと他大学への進学を決めました。
時は1988(昭和63)年、社会学科が存在する大学は現在ほど多くはなく、また当時の明星大学一般入学試験では筆記試験と面接を各1日ずつ計2日間の実施が特徴で、それだけ時間をかけて真剣に学生と向き合う大学なのかな?と自己判断。1浪の末、1989(平成元)年4月に入学しました。
【時間を戻せるならば大学入学直後へタイムスリップしたい!】
入学当時は音楽が好きでヘアスタイルはロング系でした。だから部活は軽音楽部、フォークソング部、そして演劇部へも体験入部を試みました。また当時は学科ごとで学籍番号順に英語のクラスが編成されており、ここから各2名が選出される代表委員にもなりましたが、部活も委員もどうも肌に合わなくて本格的な参加はせず、気が付けば授業終了後は「帰宅組」となっていました。これは大学卒業後30年が経過する今でも最大の後悔です!原因は既に中学・高校時代の先輩や後輩、同期の仲間も多く、「大学でこれ以上の新しい友達は必要なし」と勝手な壁を作り、貴重な大学4年間の生活に心底のめり込まず、大変もったいないことをしたと、とても悔やんでいます。
(そんな経験から現在は「明星大学同窓会」「26期会支部」「社会学科会支部」へ遠方在住により遠隔で参加をしています。)
【授業へは休まず出席。思い出もある。】
「教えること」には興味はありました。でも教職課程は履修せず、むしろ教職課程を履修している同期を「授業の数が多くて大変だね―」と人ごととして見ていました。そんな自分でしたが一般教養や社会学科の各科目には大変興味があり、また入学当時から卒業までご指導を頂いた尊敬する恩師の高島秀樹先生(元副学長)の研究テーマ「地域社会における人間形成」、この学びの影響で潜在的に「人間形成=教育」という側面を培ったのだと、教諭となった現在は考えています。
「帰宅組」の自分でも唯一の思い出はゼミ合宿です。社会学科では学籍番号89から始まる1989(平成元)年入学者よりゼミは2年生から始まりますが、ゼミ合宿への初参加は3年生。その時は4年生に付いて行く立場でしたが、自分が4年生の時は3年生(後輩)を先導する幹事役を務め、この経験が一般企業への就職活動と、やがて人生の大胆な方向変換で小学校教諭となる上での基盤となっていると実感しています。
【会社員となれば24時間戦う(働く)ことが普通だと考えていた】
自分が大学2年生の1990(平成2)年は、あるテレビCMで「24時間戦えますか?ビジネスマ~ン♪ビジネスマ~ン♪ジャパニーズ!ビジネスマ~ン♪♪」のフレーズがバブルの好景気の中で大ヒット。一方で長時間労働による「過労死」が社会問題視されていた時代でもありました。その時、社会学科では一部の授業の中で、この「過労死」を題材として取り上げた授業もありました。日本人は猛烈に働くことが美談だという、昭和の精神論の余韻が残っていた平成初頭。それが社会人として会社員としての普通であり、国民の三大義務で「教育」が終了すれば「勤労」「納税」をする側へ回るために、大学卒業後は会社員となりました。
入社6年目(1999年) 新卒採用時の会社案内より
【入社後10年間は転勤族に】東京→名古屋→東京→辿り着いた北の大地「札幌」
新卒で1993(平成5)年23歳。「ベビー・子ども用品・玩具のメーカー」へ就職。既にバブルははじけ、時は就職氷河期と呼ばれた1年目に陥り、各企業の就職採用者数は前年比で激減という時代の新卒だからこそ、猛烈に働くことと宣誓し、配属先は東京営業所へ。景気後退の最中、予算・売上増、そして営業効率を目指し営業マンとして自ら行動。営業利益獲得のために何でもやれと、まさに昭和の余韻が残るイケイケの社風でした。平日は商品調達や店舗回り、土曜日・日曜日は販売担当者の指導のために自ら売場にも立ち、仕事のやりがいをつかんだ喜びの毎日でもありました。
入社2年目25歳。社内では苛酷と噂の名古屋営業所へ転勤。自分は埼玉(所沢)で生まれ育ち、名古屋になじむまで時間がかかりました。それは、例えば東京で100万円を売り上げる感覚が名古屋では半分程度でしか通用せず、新たな精神論と営業スタイルの工夫が求められ、勤務は明け方の午前3時頃まで続き、その4時間後の午前7時には会議という過酷な日々でした。現代のコンプライアンス重視では考えられませんが、猛烈に働きました。その中で消費者参加型による新スタイルの商品展示会を開催させたことが社内で画期的と称賛され、やりがいを感じてさまざまな仕事を吸収しました。
入社4年目27歳。名古屋での経験を胸に東京へ戻り、全国チェーン店の本部営業担当でオリジナル商品の開発、新規大口顧客との契約業務が中心となり、営業一筋の自分はノリノリの毎日でした。
入社7年目30歳。この年頃となれば会社が要求する能力は「マネジメント・教育・指導」です。もともと「教えること」に興味がありましたから、特に力を入れて大切としてきたことは、売上向上を目指す上で販売担当者へ自社製造の商品知識とノウハウを教え、商品を「知り」「愛する」ところまで導くこと。この経験により「教えること」の重要性が理解でき、また苛酷だった名古屋で経験した全てのことが自己成長につながったことをかみしめ、楽しみながら仕事に燃えました。
入社8年目31歳。札幌出張所所長へ昇格。北の大地へ着任。これまでノリノリの毎日でしたが4年後の35歳の時、ついに1つしかない自分の体が悲鳴をあげてしまったのです…。
【季節感すら感じなかった多忙な日々だった。そこで真剣に自分を見つめ直した。】
所長へ昇格をさせてもらった会社へ恩を感じて無理をし続けてきました。しかし自分の体は1つしかない。既に結婚し家族(息子2人)への責任もある。だから自分が本当に責任を負わなければいけない相手とは会社か?家族か?そして人生は1回限り。真剣に考えました。
一方、仕事を離れれば父親であり、息子の小学校PTA(父親の会)役員を務めたことで「学校側の立場で仕事がしたい」、そして営業マンとして学んだ「教えることの重要性を伝えていきたい」と、まるで恋愛の初めのようにビビッと感じ、自分の心の中で激震が走りました。
【思い立ったら即行動!教育委員会へ営業マンの乗りでアポなし訪問】
自分は何を勘違いしていたのか教育委員会へ出向き、受付で「すみません。小学校教諭へ転職したいのですが、社会人経験者枠などの採用はありますか?」と伝えたら、周りの反応は「???」。そこに偶然、PTAでお世話になっている校長先生がいらっしゃり、「松田さん!どうしたの?教員免許がないと無理だよ!」と言われてしまいました。今思えばここで校長先生と出会わなければ不審者扱いされたかも…(笑)。でもこのおかげで新たなスイッチが入り、母校明星大学の通信教育部を思い出して恩師の高島秀樹先生へご連絡を申し上げました。
高島先生から通信教育部の現状について、詳しく伺いました。そして最後に高島先生から「松田君、大学の校舎も大規模リニューアルで大きく変身したよ。だから母校に帰っておいで」とのお言葉をいただき、ここで固く決心がつきました。
既に35歳。会社を正式に退職し、自分の新たな人生のご縁と運命を信じて明星大学通信教育部へ入学しました。
【通信教育部の勉学はとてもハードなのだ】
通信教育部の教材は札幌の自宅へどんどん送付され、それをひたすら読み、図書館で参考文献を探し、レポートを作成して提出。そして定期試験は全国各地で毎月実施。また夏・秋・冬に明星大学で開催のスクーリングへ参加して音楽実技も習得。通常、必要な単位修得まで2年のところ3年を費やしました。一方で札幌市教員採用試験資格は年齢制限が40歳以下。この時の自分は既に38歳目前。残されたチャンスは2回だけ。ゆえに教員採用予備校へも通学し、採用試験に臨んだ結果、合格。「38歳の先生1年生」として人生の大胆な方向変換により、教諭のスタートラインへ立てました。
【スタートは小学1年生担任へ。同世代の保護者は「えっ?」と動揺?】
教育委員会での辞令交付の時、新卒がほとんどで38歳の同世代は1人もいない。そして先生1年生が小学1年生の担任をすることもまずなく、稀な立ち位置からスタートしました。
また担任するクラスの保護者の多くが自分と同世代。初対面の保護者に「自分は38歳で先生1年生です!」と告げたところ、一部の保護者は「えっ?」と動揺?無理もないか…。でも懇談会で自分が24時間戦おうとしていた営業マンから教諭へ、人生の大胆な方向変換を決意した理由を伝えた結果、「面白そうな38歳男だ?」と思われたのか、多くの保護者から「一緒に頑張っていきましょうよ!」と共感をいただきました。この瞬間、明星大学創設者の児玉九十先生が目指された「保護者+学校(教師)+学生(児童)」による「三者一体」の精神が生まれました。
以降、このクラスを2年間受け持ち、3年生へ送り出す時、成長した児童一人一人の「顔」「顔」「顔」を眺め、教諭として、人間として、感無量!この幸福感は季節感すら感じない毎日を送ってきた会社員時代には味わうことはありませんでした。
【学校現場の日常と現実(主観)】
小学校では1年生がとても大切な時期で、指導上でも一番難しく難易度が高い。小学校へ入学するまでは時間制限などほぼ皆無に等しい生活から、時間で区切られる生活へのスタート現場が小学校です。これは大人への第一歩として懸命に身に付けさせます。2年生・3年生となってからでは手遅れだと考えています。
校長が変われば業務に対する風向きも変わりますが、一部の教諭の中には「新たな課題を見つけて80点」よりも「決められたことをこなして100点」の方を美徳とする傾向があります。これは一概に学校現場と民間企業とで比較はできないものの、会社員時代の文化とは異なり、業務上の視点からは違和感を覚える時もあります。
世間では教諭の長時間労働が社会問題視されていますが、教諭を「業界」と例えた場合、この業界は時間的なコスト意識とマネジメント力は低く、労働時間から鑑みた目的達成(ゴール)を自分で決めないと終わりがない業務へ陥りがちです。児童のためという漠然とした理由だけで残業し、自分を犠牲にしても、児童の育成状況は変わらないのです。
教諭となってよく聞かれることが「モンスターペアレントの対応が大変ですか?」。確かに保護者の全員と上記で述べたような一体感が生まれる訳ではありません。何かと怒鳴り込んでくる保護者もいれば、毎年のように気難しい保護者も現れることで、上記の「業界」としては現場が委縮し、「頑張りすぎると保護者から苦言を頂戴するからほどほどに」という考えに留まる現実もありますが、これは理解できない訳ではありません。
保護者の意見はさまざまで「将来的なことまで考えた指導に賛同」もあれば、まだ小学生だから「厳しくしなくても…」という意見もあります。近年、多いのは後者であり、はき違えた個性を尊重する傾向を危惧しています。
自分も父親で反省している点ではありますが、社会で役立つ子どもを「①保護者自身が育てる」という当事者意識と「②よその子どもも育てていく(見ていく)」という感覚が希薄という現実の中で、自分は「②」も重要だと考えています。これは高島ゼミの研究テーマ「地域社会における人間形成」で学んだ社会学科イズムでもあるからです。この点は教育学科出身者の考えとは明らかに異なる場合もあります。
【自分の教諭ポリシー】
相手が子どもでも社会で許されない言動と態度には厳しく指導しています。大人が許しがたいと思うことを「子どもだから」で許してはいけない。その訳は、日々、我慢の練習を通じて将来へ向けた自立心を育てることが教諭の使命だと信じているからです。理想ですが児童自身が将来、あの時の教諭の一言を「覚えていた」とか「気に留めていた」となれば教諭冥利(みょうり)に尽きます。
【あっという間に教諭生活15年。ここまで平坦ではなかった教育者への階段】
これまで3年生以外の学年担任を務めました。この間、独自のテンションで学級運営を頑張ってきましたが、同時に児童にも頑張らせすぎた時があり、正直に言えば、いじめ、不登校を生み、クラスが崩れかけた時もありました。でもそのたびに懇談会へ参加された保護者の方々が、一緒になって児童への声掛けと、担任である自分のサポートに努めていただき、保護者と学校と一体となって挑みました。そして自分は教育者の階段を一歩一歩登らせていただき、教諭としての経験を積ませていただきました。日々、保護者の皆様へは心から感謝をしています。
【休日は趣味とボランティアに没頭。ここで得た知識や経験・感動は全て児童へ伝授したい】
40代後半からですが写真撮影に熱中し、撮影教室へも通い、果てしない大空の下にある北の大地の風景やコンテストへ出品する作品の撮影をしています。
そして自分は大学在学中からバイク好きでライダーです。ライダーにとっては憧れの、どこまでも続くまっすぐな道、地平線が見えそうな広大な農地、これを眺めていると心が洗われます。だから自分は北海道に永住します。
傑作品の数々
入選作品(北海道開拓村の馬車鉄道)
毎年2月に開催される「さっぽろ雪まつり」ではコロナ禍前の2020年まで、高さ15m、幅20mの大雪像を作成するボランティアへ参加することも楽しみの1つとしていました。1カ月間、20名ほどのメンバーで力を合わせて作成しますから、その達成感と感動は例えようがありません。そのような気持ちを日々の教育の中で児童へ全て伝授していくことが、社会で役立つ子どもを育成する上で、とても大切なことだと自分は信じています。
2020年2月(コロナ禍直前)さっぽろ雪まつり大雪像作成ボランティアの皆さんとともに
本年2023年2月(3年ぶり)開催 さっぽろ雪まつり大雪像作成にも参加
【在学生の皆さん!人生の「ターニングポイント」にはチャレンジ精神で挑もう!】
自分は2022年度より、デジタル化によるGIGAスクール構想で1人1台の端末による教育環境整備と管理運営を担当するために担任を離れました。これで全学年の学級と児童に関わることとなり、担任時代よりも業務の幅は広く難化しました。これを自分に課せられた新たな人生の「ターニングポイント」として挑んでいます。
「ターニングポイント」は人生の中でさまざまな内容で何度か訪れます。中には苦しい内容もあることでしょう。でもそれを受け止め、人生経験の上で新たに課せられた学びのチャンスとして捉え、苦労することに前向きで挑んでほしい。自分もまだまだ挑みます。
また社会生活では「ワーク・ライフ・バランス」が重要です。「猛烈に働く」ことも「自分自身を大切に守る」ことも、両輪で「人生いろいろ」の経験を積んでほしい。
全ては「健康・真面目・努力」、自分はそのように信じています。
1993(平成5)年 人文学部社会学科卒(26期)
札幌市立小学校教諭 松田 聡(まつだ さとし)
「インタビュー:広報部26期・社会 後藤 信夫」