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2023年秋の叙勲者(瑞宝双光章)インタビュー

今回ご紹介する 浅見義明(あさみよしあき、5期・土木工)さんは、2023(令和5)年秋の叙勲において、保護司26年間の功績に対して瑞宝双光章を受章されました。そこで、授与式典の模様などについてのお話をしていただきました。また、併せて在学時代の思い出や卒業後のご活躍についてもうかがいました。
新春にふさわしい話題としてご提供いたします。

<瑞宝双光章受章> 
― このたびは瑞宝双光章受章、本当におめでとうございます!
またお忙しい中、わざわざ日野キャンパスまでお運びいただきありがとうございます。本日はよろしくお願いいたします。

浅見 瑞宝双光章と章状を額に入れて持参しましたのでご披露いたします。

― 拝見させていただきます。

― ありがとうございました。ところで、インタビューですが、在学時代やご卒業後のこともお話しいただきたいのですが、是非うかがいたいのは、授与式典やその前後の様子です。

浅見 授与式は11月10日だったのですが、その約1か月前に突然、法務省の課長さんから電話をいただきました。11月10日に予定を入れないようにということで、はじめは何のことかわからなかったのですが、お話をうかがっているうちに「国家および公共に対する寄与が大であり」ということで、瑞宝双光章の叙勲対象者になったと理解しました。

11月10日当日ですが、午前11時に法務省に行きました。そこで勲章の伝達式があり、他の受章者の方々とバスで皇居に向かいました。坂下門から皇居に入り、そこからのご案内は、それまでの法務省の方に代わって宮内省や皇宮警察の方になりました。

天皇陛下の拝謁は「春秋の間」でありました。私は2列目に着席しており、ほどなく天皇陛下がご来臨されました。そして「健康に留意されおのおのの道で精励されるように」とのお言葉を賜り、その後、幾人かの方々にはお声がけがありました。

式典終了後、皇居内をご案内いただいて、再びバスで往きとは別ルートで皇居を1周するように回って法務省にもどりました。その日は、勲章をなくさないように、しっかりしまって真っ直ぐ帰宅しました。そしてほどなくしてから、先ほどご披露した額に納めました。勲章は額に入っているものとは別に、儀式で着装できる略章があります。

― 叙勲されてのお気持ちを一言お願いいたします。

浅見 とにかくうれしかったです。それまで私のことを援助してくれた妻をはじめ、家族や関係の団体などの方々への感謝の気持ちでいっぱいです。

― 叙勲後はお忙しくなったでしょうね。

浅見 叙勲が発令された11月3日には、小池百合子・東京都知事をはじめ各方面の方々から祝電をいただき、合計50通ほどになりました。また胡蝶蘭もいただき、しっかり世話をして長く育てていくつもりです。その他、忘年会やいろいろな会合で花束をいっぱい頂きました。酒井大史・立川市長のところには、額に装丁した勲章を携えて表敬訪問をしました。

叙勲後は、多くの方々がご関係者とホテルなどで盛大に祝賀会を催されるようです。ただし、私は保護司としての叙勲です。つまり対象者の更生・保護の役割を担っているので、社会の表に出てお祝い事をすることを控えようと思い遠慮しました。

<保護司*とは?>
*保護司:地域の事情に詳しい民間のボランティアで、人格及び行動について、
社会的信望を有すること
職務の遂行に必要な熱意及び時間的余裕を有すること
生活が安定していること
健康で活動力を有すること
のすべての条件を満たしている方について、保護観察所長が、地方裁判所長、地方検察庁検事正、弁護士会長、学識経験者等で構成される保護司選考会に諮問した後、法務大臣に推薦して委嘱されます。平均年齢は65.6歳で、会社員、主婦(夫)、農林水産業、宗教家、定年退職された方など幅広い年齢・分野の方々が保護司として活躍されています。
(法務省ホームページより、一部省略)

― 保護司を永年されて叙勲ということしたが、保護司のお仕事について教えてください。

浅見 守秘義務がありますが、大体のことをお話しします。私は40歳代から26年間続けてきました。犯罪者の更生と再犯防止が責務です。対象者と称しますが、その人たちが社会に戻るお手伝い、または見守りをします。

そのため、原則月に2回面談をします。中には電車の乗り方の指南やスーパーマーケットでの買い物の手伝いをしたり、住まいのない人に住宅を世話したり就職先を紹介したりすることもあります。

前科がつくと、技術や能力があっても資格が取れない欠格期間というのが設けられているのですが、それを過ぎてから、医師や公認会計士になる人も実際に担当しました。

対象者との付き合い方で、私が気を付けているのは相手との距離感です。それぞれの対象者により距離感は違うので、近く寄り添うか少し離れて見守るか、その点をしっかり考えて応対しています。

仕事で塀の中に入ることもありますが、そこは内側から見ると本当に冷たく寂しい。塀の上には電気の通っている有刺鉄線があり、カメラで監視されていることがわかります。

― 本業がお忙しい時期もあったと思います。時間のやりくりが大変ではなかったですか。

浅見 対象者とは月2回、相互に自宅を訪問して面談します。湯茶接待は妻が協力してくれとても感謝しています。仕事と、自分の時間も必要なので、原則土曜日、日曜日を当てていました。原則通りにいかないこともありましたが、8割方できたと思います。

<明星大での思い出>
― 明星大学についてのお話に移りたいと思います。まずうかがいたいのは、入学の動機です。

浅見 明星高校在学中、りっぱな建物などを造る土木工学科に入りたいと思っていました。高校受験の時にこりて、とにかく受験勉強をしなくてよい大学と思っていたところ、明星大は推薦入学できるので決めました。

― 一番印象に残っていることは何でしょうか。

浅見 思い出はたくさんありますが、一番は、卒業式で土木工学科の総代として当時の学長、児玉九十先生から直接卒業証書を授与されたことです。

在学中はしっかり勉強しました。個性的な先生が多く講義は楽しかった、中でも土木工学科主任教授の伊藤健雄先生の「至誠天に通ず」を覚えています。他にも森満雄先生、志村正吾先生など懐かしい先生方がおられ、三浦一郎先生は特に厳しかったと記憶しています。

― 卒業研究の指導はどなたでしたか。

浅見 卒業研究は、廣瀬盛行先生の研究室でした。とても温厚な方で、学生のことを本当によく考えておられた。一度だけでしたが、学生に対して助手の方が不都合な事態を生じさせた時に「大学で一番大事なのは学生だ!」と先生の怒号が響きわたったことを覚えています。

先日、明星学苑100周年記念講演会(2023年11月23日15:30‐16:30、明星大学32号館108教室)で日野キャンパスを訪れての帰り道、陽が落ちてから浮かび上がるような立川方面のきれいな夜景を見てとても懐かしく思いました。

― 卒業研究や部活などで遅くなった時、夜景は確かに美しいですね。ところで、課外活動として自転車競技部でもご活躍されたそうですね。

浅見 当時はユニフォームもなく、体育の藤井立三先生には大変お世話になりました。マイナーなスポーツでしたが、私は1964年の東京オリンピックで自転車競技を見てこれをやりたいと思ったのです。

 

一生懸命やりました。競技人口が少なかったこともあり、全国大会にも出場しました。合宿で館山フラワーラインや山中湖などいろいろなところを走り、これも楽しかったです。

卒業後にトライアスロンを始め、水泳とランニングでは速い人の後塵を拝しましたが、自転車では200人くらいを次々と追い抜いて気持ちよかったです。かつては立川のトライアスロン協会では会長も務めていました。

― ご卒業後もいろいろ挑戦されているのですね。

浅見 60歳くらいの時に、フランスで毎年夏に開催される「ツールドフランス」のアマチュア部門にも参戦しました。今でも、時々多摩川べりのサイクリングロードを走っています。

― 当時、体育会には自転車を使った運動部が、確か他にもありましたね。

浅見 サイクルサッカーですね。競技部の方は現在も続いていて、プロの競輪選手も輩出しています。

― 体育会の設立にもかかわったそうですね。

浅見 入学した時には体育会という組織はありませんでした。2年上の先輩たちが設立に努力されたことを引き継ぎ設立させました。規約を作成したのですが、一から始めたので20校ほど他大学の体育会に協力してもらいました。

<お仕事のこと>
― 現在のお仕事は会社経営ですね。

浅見 「株式会社アサミ」は不動産賃貸業で私は専務取締役です。立川の結婚式場「アニヴェルセル 立川」(多摩都市モノレール「泉体育館駅」から徒歩2分)のほか複数のビルも所有しています。ただし、各々運営は別の会社に委託しています。

他にも、私は「社会福祉法人 至誠学舎立川」*の理事も務めています。

*社会福祉法人 至誠学舎立川:100年以上の歴史を持ち、東京都立川市に本部を置き、児童養護施設3、障害者福祉施設1、保育所11(分園も含む)、こども園1、高齢者介護福祉施設・サービス24等を経営し、施設・事業は、立川市の他に日野市、国分寺市、調布市、世田谷区、渋谷区等にあります。(至誠学舎ホームページより抜粋)

― 卒業時から今の会社ではないですね。

浅見 卒業時は「株式会社竹中土木」に就職しました。入社してみると、この会社は、大学入学時に思い描いていた建物造りではなく、ダム・橋梁・トンネルなどの土木工事会社でした。

― 我が国のスーパーゼネコン(5大ゼネコン)の一角を成す「株式会社竹中工務店」の土木工事会社ですね。すごいところに就職されましたね。

浅見 当時は、明星大がこの会社の求人指定校ではなかったのですが、人事課長に気に入られて入社できました。推薦状が必要だったので、主任教授の伊藤先生に書いていただきました。そして面接を終えた夜、カタカナの電報で合格を知りました。

― そう、当時は電報でしたね。しかも漢字でなくカタカナ。入社後は当時の多くの方々のように猛烈に働いたのでしょうね。

浅見 竹中土木では、設計・現場・営業と一通り経験しました。はじめは、先輩の設計図のトレースからでした。そこでプロの技を吸収していきました。現場ではその日の工事が終わってから図面を書く日々でした。

このように、竹中土木ではいろいろ学びましたが、その一つに「竹中イズム」というものがあり、プライドですね。造り上げたものを「作品」と呼びます。橋やトンネルも「作品」です。

そんなある日、「明日から営業!」の一言で突然部署が変わり、官庁営業を通して営業活動の極意を会得しました。このような経験を十数年積み上げ、竹中土木を退職し、「株式会社アサミコンクリート」に入社しました。

― 現在の株式会社アサミとは違いますね。

浅見 生コンクリートの製造販売会社でした。業績もかなり良かったのですが、景気の風を読み、不況の波がくる前にこの会社を閉じ、今から17年前に敷地を結婚式場にしました。

ただ、廃業するにあたり、従業員の処遇が問題でした。幸いその時は、まだ好況が続いていいたので再就職も容易で、保険もしっかりしていたのでなんとか円満に収めることができました。

おかげさまで、今では年間300組、多い日はナイトウエディングも含めて1日に6組と盛況です。ちなみに、この式場での最初のカップルは私の長男夫婦です。

― そうですか。いろいろお話しいただきましたが、ご家族のことをあまりうかがえませんでした。

浅見 3人子供がいて、2人は国際結婚です。長女はインドネシア人、次男はシリア人と結婚しました。

― 叙勲のこと以外にも盛りだくさんのお話しをしていただきありがとうございました。転職・起業・業種転換のこと、また国際結婚しておられるご子女のことなど、また機会があればうかがいたいと思います。最後に、日頃心掛けておられることをご披露願いたいと思います。

浅見 「健康、真面目、努力」です。

― 明星学苑の「校訓」ですね。ありがとうございました。

2023.12.12(日野キャンパス20号館5階にてインタビュー)

浅見義明
(あさみよしあき5期・土木工学科
1972年3月卒)
保護司
株式会社 アサミ 専務取締役
立川商工会議所 議員
社会福祉法人 至誠学舎立川 理事
児童養護施設 至誠学園後援会 会長
NPO法人 立川障害者後援会 副理事長
立川市トライアスロン協会 顧問
一般社団法人明星会 明星大学同窓会 代議員
元 明星大学同窓会 副会長

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