令和6年能登半島地震における支援活動報告【第2弾】
<はじめに>
池田雄毅さん(いけだゆうき29期(青梅1回)・電子情報学科1996年3月卒、三喜技研工業株式会社 代表取締役)の能登半島地震で被災したインフラ(下水道)の復旧作業レポートが届きました。なお、写真はすべて出動後現地入りしてから撮影されたのものです。
<出動レポート>
2024年1月1日午後4時10頃に発生した「令和6年能登半島地震」において、石川県内灘町に災害支援に行ってきましたので報告します。三喜技研工業(株)は過去、阪神・淡路大震災(1995年)、新潟県中越地震(2004年)、東日本大震災(2011年)と幾度かの災害支援に行っており、今回の支援も志願することとした。
当社は公益社団法人 日本下水道管路管理業協会(以下:管路協)の会員であり、今回の災害派遣も協会の要請を受けて出動した。(管路協は下水道管路の維持管理を業とする会社が集まった全国規模の協会です。地震や豪雨などの災害時における復旧支援を行うため「災害時復旧支援協定」を各自治体と締結しています。)
2024年1月1日(月)能登半島地震発生。地震発生の翌日より現地の情報が逐次メールで送られてくるようになり、日に日に被害の大きさが伺えてくる。
1月4日(水)仕事初めの日に社内関係部署には、派遣要請があった際に対応できるように指示を出す。
1月7日(日)派遣要請依頼があり、派遣に向けた調整に入る。我々の業界は3月年度末までは繁忙期であり、人員・機材の調整が必要であった。また、現地に行く車両にはスタッドレスタイヤが必須との事で、急いで手配することとなった。後日ではあるが、工事用車両のスタッドレスタイヤを無償で提供してくれたタイヤメーカーもあったと聞く。
高杉商事(株)の髙杉憲由社長(10期・土木工)と相談し、高杉商事・三喜技研の混成班で支援隊を結成した。人員は9名、車両は作業に必要な高圧洗浄車、汚泥吸引車、テレビカメラ搭載車、現地での移動に必要な連絡車とした。
1月18日(木)石川県内灘町に派遣されることが正式に決定したとの連絡を受けた。内灘町は金沢市と隣接しており、今回の地震では震度5弱を観測した。期間は1月22日(月)~2月3日(土)とした。この頃になると金沢市内のホテルは空いておらず、なんとか富山市内のホテルを確保することができた。
富山市内から内灘町は距離にして約75km、高速を使えば1時間30分程度であり、通うことは可能であった。朝晩の移動時間が短ければ、現地に派遣しているスタッフの負担が減るので助かった。以前、東日本大震災の際は片道3時間かけて現地まで通っていたことを思い出した。
1月22日(月)東京都から石川県へ移動し、翌23日より現地での作業となる。作業内容は自走式のTVカメラを使用し下水道管きょ内の調査を行った。地震によって管きょの破損具合を調べるためである。調査前には管きょ内を清掃し、土砂等の除去作業が必要となる。
調査結果をもとに今後の復旧計画や災害査定に関わる重要な業務である。
私自身は1月30日(火)~31日(水)の2日間、現地を訪れた。
北陸新幹線で金沢駅に着くと、そこは日常と変わらない光景だった。(事前に金沢市内に住む友人に連絡をとり、状況は聞いていた)ただ、観光客らしき人が少ないこと、災害支援の人だろうか作業着を着ている人、また任務を終え帰路につく制服姿の人が多かったことが印象に残っている。
その後レンタカーを借りて現地に入った。当日の作業場所をナビに入れて現地に向かう。金沢市を抜けて内灘町に入る。しばらく走ると、コンビニやスーパー、ドラッグストア等は普通に営業している。所々道路が隆起し電柱が傾いているところはあるが、日常が伺えられる。
しかし、河北潟放水路(河北潟から日本海へ流れる水路)を渡る橋のあたりで状況が変わる。通行止め箇所が増え、使用できる道路が限られてくる。高台の道へ迂回するも、崖崩れにより片側交互通行の場所もあったが、なんとか作業班と合流することができた。
当日の作業場所は県道8号線沿い。家屋や電柱は傾き、道路は盛り上がり、液状化のため土砂が流出していた。また被災した建物には「被災建築物応急危険度判定」のステッカー(右の写真で白い板に貼付)が危険度に応じた色で貼られてあった。かつて東日本大震災の際、今回と同じような災害派遣で宮城県石巻市に行った。津波の被害を受けた街を見た時と同じようなショックを受けた。
顔なじみである金沢市内にある同業者の方と偶然現場にて出会した。聞くところによると、地震発生後より対応に追われており、かなり疲労しているようであった。
現地では管きょの破損した部分から浸入水が流入し、人孔(マンホール)内まで滞水していた。この滞水している水を吸引車で吸い、管きょ内の水を取り除いてからTVカメラ調査に入る。かなりの水量があり、なかなか作業は捗らないと聞いた。
このような作業を2月2日(金)まで繰り返し行い、2月3日(土)に全員帰社することとなった。
日本は地震大国であり、いずれは南海トラフ地震や首都直下型地震が来ると言われている。
それに対して備えなければならないし、東京に住んでいる私は当たり前の日常生活を送れている事に感謝しなければいけないと思った。
最後に令和6年能登半島地震において、被災された方々にお見舞い申し上げるとともに、1日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。