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畑から食卓へ「安心・安全・おいしい」を届ける

今回は、無塩大豆発酵食品である、「納豆」や「テンペ」を製造・販売しておられる、株式会社登喜和食品の代表取締役社長 遊作誠さん(5期・土木工)を同社の本社社長室にお訪ねしました。


府中市西原町の製造および販売所

 

この会社は第二次世界大戦終戦後の1949年、帰還兵であったお父様の遊作 登さんが「多磨納豆製造所」として、当時の多磨村(府中多磨霊園の近く)に創業されました。現在の社名「登喜和」の「」はお父様の名前ですが、この漢字は「屋根を支える豆」という意味に通じ、併せて「びをやかに育む」食品メーカーになることの決意として命名されています。

お父様は戦争で負傷され、それがもとで遊作さんが小学6年生の時に亡くなられました。事業はいったん叔父様が引き継ぎ、現在は遊作さんが継承し、事業所を東京都府中市西原町に移転し、こだわりの納豆やテンペの製造並びに販売をしています。

 

<日本の農業を応援し、安全・安心な大豆製品の提供>

遊作さんの会社では、日本の農家・農村の再生を願って、大豆生産者との信頼関係に基づき、遺伝子組換えしていない100%国産大豆を直接買い付け、培養履歴の確認可能な菌類を使用した納豆やテンペの製造・販売をしています。また、タレやカラシにも化学調味料や着色料は使用していません。

大豆は、主に北海道や青森県の生産者から直接買い付け、納豆菌は共同研究により独自に開発されたものを使用しています。その分販売価格は、一般的な食品店やスーパーマーケットより高めに設定されています。

「購入されるお客様(消費者)には、工場に併設された直営販売所やスーパーマーケット、生協、ネット販売を通じて購入していただいております」ということでした。


(株)登喜和食品で製造・販売している商品

 

<テンペとは?>

「納豆」は良く知られていますが、今回、登喜和食品の「テンペ」について詳しくお尋ねしました。

「テンペとは、インドネシアの伝統的な食材で、ゆでた大豆をテンペ菌で発酵させたもので、現地では加熱して日常的に食べられています。日本では1990年代後半に健康食品としてブームになりそうなこともあったようですが、あまり普及しませんでした」

登喜和食品が2003年に新たに開発したテンペは、大豆とテンペ菌、そして米酢、米粉を使用しており、それ以前のテンペとは違って、味に透明感があり、全く別物のおいしい食材に仕上がったそうです。

「納豆」についても、遊作さんの会社では独自の「東京納豆菌」を使用して製造をしておられます。

テンペと納豆については、下記の Web をご覧ください。

[テンペ] https://www.tokiwa-syokuhin.co.jp/tenpe-from-japan/

[納 豆] https://www.tokiwa-syokuhin.co.jp/tokyo-bacillus-natto/

 

<転機>

本学で、土木工学を学修された遊作さんがなぜ、食品会社を経営することになったのでしょうか。家業が納豆製造所だから(?)というだけではないようです。

「納豆製造所は、元来単価の低い納豆を食品店などに卸して販売、集金する日銭商売。決して継ぐ気はありませんでした」

卒業後、就職したのは主に橋梁工事を手掛ける建設会社でした。仕事に熱中し、図面作成で不明の点は退社後に大型書店で調べて会社に戻り作成を続けるなどいわゆる「猛烈社員」で、今でいえばパワハラまがいのこともあったようです。

しかし、世界初となる張出し工法のPCトラス橋施工を経験し仕事は楽しかったそうで、

「今でも機会があり、体力がついていければやってみたい」とおっしゃいます。当時施工した三陸鉄道の橋梁(岩手県田野畑村)は、2011年3月の東日本大震災にも耐え、現存しています。


遊作さんはどちらの写真でも右端

 

およそ50年前、工事の先遣隊として現場に赴いた時のことです。

「ホテルなどはなく、長期間にわたり農家を宿舎とする民泊をしていました。その農家での悲惨な状況を見聞してショックを受けました。農業収入だけでは食べていけない現実、農閑期に都会に出て収入を得る、いわゆる出稼ぎまでしてもカツカツの生活しかできないのです」

そのことを目の当たりにしたことが遊作さんの転機になりました。

「何とかならないのか、自分にできることはないかと考えました。その結果、岩手県は大豆の産地であり、その大豆を家業である納豆の原料としたらよいという考えに至り、上司に詳しく説明もせず6年間在籍した会社を退社しました」

しかし、家業に転身したものの、当時経営を引き継がれていた叔父様に「外国産に比べて割高な国産大豆では商売にならない」と言われたそうです。しかし、「それでも味には自信があったので、高級スーパーマーケットに再三売り込み、やっとのことで商品が店頭に並びようやく路が拓けました」

それ以降も、商売として軌道に乗るまでは苦難の連続だったそうです。そして、「ようやく自分の目で確認できる原料と素性の分かる納豆菌を使う製造工程が確立できました。つまり、生産農家からの“トレサビリティtraceability:trace追跡とability能力を組み合わせた造語で、原材料の調達から生産そして消費まで追跡が可能)”と“おいしさ”が両立する大豆製品を製造・販売することができるようになりました」

 

<原点>

「学生時代に何をしたか、また何をしなかったかではなく、社会で何をするかと努力してそれをしっかり身につけることが大事」と遊作さんは幾度も繰り返されました。ただし、「社会での基盤は学生時代のすごし方」とも強調されました。

大学で2年生までは部活(ワンダーフォーゲル部、略してワンゲル)に打ち込んでおられました。

「当時のワンゲルには数十人の部員が在籍し、そこで上下関係をはじめとするコミュニケーション力と団結力が育まれました。星友祭の後夜祭では、毎回ワンゲルがキャンプファイヤーを担当し、京王線の使用済み枕木を井桁に組み点火後の防火管理と処理を行いました」

「丹沢山地の(通称バカ尾根)登山では、水・食料を含むキャンプ用品を背負って山道を登ります。そのときに培われた、苦しくてもメゲナイ精神力は、社会での橋梁工事や会社を現在の形にするときにも生きています」と感慨を込められました。

「ちなみに、重荷を背負って目的地に到着し、キスリング(横型のリュックサック)をおろしたときの爽快感は格別でした。他にも、当時まだ米国統治下だった沖縄や国内各地でのワンデリング(ヴァンデルング、ドイツ語のWanderung)は良き思い出です」とのことでした。

3年生からは専門科目の修得に没頭したそうです。「授業にも真剣に取り組み、専門科目はオール優(現在の評価ではSまたはA)を取り、3年生からコンクリート工学で著名な、(当時)土木工学科の三浦一郎教授の研究室で、他大学の学生がうらやましがるような設備(疲労試験機)を使用して研究活動を行っていました。そしてそれが、橋梁建設会社へ就職の礎ともなりました」

母校については、「出身の土木工学科が無くなったことが残念であり寂しい」とのことでした。

 

<世界に貢献する人(世界に信頼される日本人)に感嘆!>

北海道の契約農協で国産農産物を東南アジアに輸出するという話が耳に入り、遊作さんもテンペの本場インドネシアに出張されました。

「日本人の口に合うテンペを開発したといっても、安価で常食としているところへの進出はなかなか難しいことです。そこで納豆をインドネシアの日本食レストラン等に提供できないかとの模索の旅でもありました」

「納豆は、現在の食習慣には無いのですが、独特の糸引きがあっても『登喜和食品の納豆はおいしい』と好評で、アジア諸国へ販売の展望が開けた出張でした」

同時に、「現地で出会った40代前半の日本人たちは、なかなか頼もしい人々だった」そうです。それは、「単に日本の方式を押し付けるのではなく、現地の人々と共同・協働しており、にぎわっている日本食店の社長によると、来店者の7割はインドネシアの人たちと聞いたからです」

他にも、ジャカルタで日本語新聞を発行している人たちも現地に溶けこみ奮闘していたそうで、「現地化し技術移転にも貢献する日本人に対する評価は、お世辞を割り引いても良好でした。例えば地下鉄について、『日本からの輸入で便利になっただけではなく、将来のインドネシアにとって重要な整備技術も伝授してもらえた』と喜んでいました」とのことです。

インドネシアで出会った人々は、残念ながら本学出身者ではなかったのですが、「このような日本人に会うとうれしくなり、明星大学の初代学長の児玉九十先生の『世界に信頼される日本人になりなさい』(現在の明星学苑の校訓は『世界に貢献する人』)という言葉が思い浮かび、実践されている日本人に会えたことに感銘を受けました」とのことです。

 

<温故知新>

社長室の壁に飾られている「温故知新」の額、これは遊作さんが大事にされている言葉です。この言葉の実例があります。「現在納豆製造の加熱工程では電熱ヒーターが使われているのですが、以前は練炭を使用していました。納豆菌の発酵は温度だけでなく湿度をはじめ様々な環境条件を整えなければなりません。ヒーターでは以前の味が出ないことがあります。そこで当社は、ヒーター使用以前から採用されていた『薫煙炭火造り』の納豆製法について特許を取得しました。」

今回のインタビューでは、トレサビリティ納豆やテンペ、また昔ながらの天然木を削り薄い紙状にした経木(きょうぎ)で包装した納豆も製造・販売しておられる、遊作誠さんからお話をうかがいました。今後も、海外展開を含めてさらに活躍されることでしょう。

2024.2.29(株式会社 登喜和食品 社長室にてインタビュー)

 

遊作誠(ゆうさくまこと
5期・土木工学科1972年3月卒)
株式会社 登喜和食品 代表取締役社長

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