寿退社、専業主婦の私が、人のつながり、明星のつながりでキャリコンに
きょうは経済学科18期卒業の清水敦子さんにお話を聞きました。
清水さんは、現在、立川女子高等学校のキャリアコンサルタントとして勤務しています。
それ以前は多摩地域の信用金庫や他の金融機関に勤務していました。
その間に、キャリアコンサルタントの資格を取りました。
以下では、清水さんの明星とのかかわりから現在に至るまでのことをお伝えします。
女子高の教壇
ー 明星との関係はいつからになりますか。
私は、小学校から明星学苑に通いました。
親が児玉九十先生*の教育にほれこんでいたからでしょうか。
弟も私の後、明星小学校に進んでいます。
低学年のころ、東久留米市、東大和市から通っていたので、遠かったです。
通学にはずいぶん時間がかかりましたが、弟が明星小学校に通うにあたって、国分寺に引っ越し、通学が楽になりました。
*児玉九十先生は、皆様ご承知の通り明星実務学校初代校長。清水さんが小学生のころは、幼稚園長、小中高校長でした。
ー 小学校、そして中高校のころで何か覚えていることがありますか。
小学校のころの私は、体を動かすことが得意で、運動会や球技大会が大好きでした。特に、運動会の徒競走には全精力!をかけて頑張りました。また、6年生で踊った親とのフォークダンスは今でも楽しかったことを思い出します。
また、高学年になってからのクラブ活動は、英語クラブに所属していました。明星祭でのクラブ発表、6年生の時は「白雪姫」の英語劇で白雪姫を演じました。英語は大好きでしたので、毎年行われる「レシティーションコンテスト」*に参加し、小学校代表で出させていただいたのも良い思い出です。
*レシティーションコンテストは、英語を暗唱し身ぶり手ぶりを交えて披露するコンテストです。
両親も授業参観や運動会には積極的に参加してくれて、九十先生から父親が表彰を受ける姿をいつも自慢げに見ていました。
そう、九十先生のいつもニコニコしているお顔が忘れられません。
中高生のころも、やはり体育系女子で、テニス部に所属。高校では部長を務めていました。
九十先生と父
試合では、いつも出ると負けでしたが、ボールを追うことが大好きで、活動に明け暮れていました。テニス部は部員が多く、100名を超える部員がいましたが、いろんな学年の部員との交流ができたことが、今も財産となっています。
小中高での良い思い出が、自分の子どもたちにも明星学苑に通わせることになったのでしょうか。
さらに、恩返しということではありませんが、明星小学校のPTAの役員にもなりました。
子どもたちは、母親が学校に来ていることがいやであったようですが、随分、府中に通いました。そこで、先生方とつながることができ、いまだに子どもたちを見てくださっていた先生方とのつながりを持つことができています。子どもの事で悩むときには、先生方のアドバイスをいただくことができたことはとても良かったと思います。
息子は小中高と明星で過ごし、娘は小学校と明星大学教育学部教育学科で学びました。
親子で、明星の同窓生です。
そして、現在、私は明星同窓会*の役員をしています。
*明星同窓会は、小中高の同窓会です。
ー 今のお仕事はどのようなことをされているのですか。
2022年の9月より、学校法人村井学園 立川女子高等学校でキャリアコンサルタントをしています。
女子生徒の進路相談を想像されるでしょうが、この職について1年半のコンサルの相談相手は主に教員でした。
ご承知でしょうが、高校では教員が進路指導をしています。
本来は、生徒たちの進路指導のためのキャリアコンサルタントですが、教員のコンサルタントでもありました。
教員の日々の悩みを聴き、自己理解を促し支援をすることが仕事でした。
キャリアコンサルタントとしての仕事を探していた当時、立川女子高等学校ではキャリアコンサルタントは在籍していませんでした。しかし、高校生のキャリア教育の必要性と進路相談や支援についての専門家が必要ではないかと考えていた立川女子高等学校の理事長にお声をかけていただきました。この理事長は信用金庫時代の上司でもあります。
高校では、生徒のキャリア教育のみならず、そこに勤めるすべての教員にとっても、キャリアを考えるきっかけが必要であると考え、最初の1年半は、教員を対象としたキャリアコンサルをいたしました。当時、既に、ある大学でのキャリアセンターの仕事に決まりつつあったのですが、その理事長の熱量と新たな取り組みに惹かれ、立川女子高等学校に行くことにしました。
とにかく、1年半、教員との話し合いに時間を尽くしましいた。
職場内キャリアコンサルタントとして、学校内の教員の相談に対応しました。教員は常に生徒のことを考え、生徒のために行動しており、とにかく忙しくプライベートや息抜きをする時間が取れていない状況でした。それでも、教員は頑張り続けることをやめようとしない。悩みを話すこともできない。そんな状況でした。
- キャリアコンサルタントになろうとしたきっかけはなんですか。
キャリアコンサルタントという仕事は、娘が就活する時まで、知らなかったのが正直なところです。就職の相談相手という認識しか持っていませんでした。
ところが、娘が就職先を探す際、キャリアセンターで対応してくださった方が、就職だけでなく、今までの自分の経験をどう活かしていくのか、自分の人生をどう考えるのか、そこをきちんと整理しなければ就職先の担当者からみたら、「あなた」個人がなぜここに就職したいのか、何を「あなた」が求めているのか、「あなた」に来てほしい、という気持ちにすることはできない。自分の今までの人生を振り返って、なにができて、何をもって就職したいのか、なぜ、この会社でないといけないのか、この点を明確にしなさい、と指導してくださりました。
対応が厳しく泣きながら帰ってきたこともありました。しかしその対応のおかげで、自己理解をしっかりし、見つめることによって、現在の就職先でも頑張っております。その時に、キャリアコンサルタントという職業を知りました。
また、その当時勤めていた信用金庫でも、若い職員が自分のやりたい事がわからず、未来展望も持てず、今後どうしたらいいのかとよく相談を持ちかけられました。そして、その対応にその人の人生もあることから、生半可に相談に乗ってはいけない、そんな無責任なことをしてはいけないと思い、キャリアコンサルタント養成講座に信用金庫に勤めながら通い、資格を取得いたしました。
ー 少し時代を戻して、コロナ禍のころのお仕事はどうでしたか。
2度目の信用金庫の退職前は、コロナ対応が厳しい時でした。
本部が移転する時と重なり、忙しい中でのコロナ対応に苦慮しました。
信用金庫での業務は、対人の業務、直接のコミュニケーションゆえ、苦労しました。
また、マスク越しのコミュニケーションはわかりづらかったです。
口が見えないことは、相手の心をとらえることが難しかったのです。
逆に言えば、私の気持ちを相手に伝えることが難しいことになるのです。
自分の状況を相手にわかるようにするために、目の動きや表情筋の動きを気にかけるように努力しました。
また、リモートなど非対面での接触が主となり、本当の自分をさらけ出さなくても良くなった分、コミュニケーションのとりづらさを感じました。
ー 信用金庫に再就職した経緯はどのようなことであったでしょうか。
2012年に、都内の銀行を退職して、大学を卒業して勤めた信用金庫に再就職しました。
その銀行では週3~4日のパートタイマーでした。
子どもの手がかからなくなり、フルタイム勤務を考えていた時に、信用金庫でフルタイムのお話があったのです。
それは、パレスホテル立川で行われた星和会*での出会いにあります。
明星高校出身者であった信用金庫の理事である元上司に出会うことができたのです。
フルタイム社員として会社に勤めたいという話をした際に、信用金庫への再度の就職の道ができました。
*星和会は、明星学苑(幼小中高大)としての同窓生の集いです。
ー 専業主婦時代、退職後のすごしかたはどのように。
私は明星大学卒業と同時に信用金庫に就職しました。
その後、1991年に結婚により退職しました。伴侶が同じ部署であったので、この場合当時は退職という道をとるのが常でした。今では考えられないと思いますが。。。
以後、専業主婦でありましたが、パート職として、歯科受付、広告代理店での事務職、新人マナー研修講師をおこなっておりました。
下の子が小学校2年生になり、手がかからなくなり、また働く自分の姿を子どもたちに見せるために、金融機関への就職先を探し、銀行に就職しました。
2003年、銀行に勤務、主に、相談業務、受付業務を担当しました。
ー 新任のころはご苦労されましたか。
1985年4月信用金庫の支店に勤務し窓口業務を担当しました。
その後、人事部研修課に配属、新人・女子職員研修を主に担当しました。
そして、業務企画部に配属して、広報・PRを担当しました。
新人時代
入ったときの人間関係が難しかったです。
私が就職した年が、信用金庫が大卒女子を初めて採用した年でした。
年下の先輩との関係が大変難しかったです。
今思えば、自分のコミュニケーション不足にあったのです。
先輩たちは一生懸命、何も知らない私に、信用金庫の「いろは」を教えようとしていたのでしょう。
私としてはつらい日々でしたが、徐々に慣れていきました。
また、若手の土曜日*の午後の交流会が役に立ったと思います。仕事で疲れていても、午後からアクティブに山に登ったりしていました。この支店内の交流によって
仲間としてのコミュニケーションがとれるようになってきました。
*当時は土曜日の午前中は業務をおこなっていました。
2年目に人事部へ異動となり、主に新任研修を担当することとなりました。
新任時の自分の苦労をこれから入ってくる新人が繰り返さないように、コミュニケーションの在り方をメモの取り方から言葉遣い、ふるまいなど自分が苦労してきたことを伝えていきました。
その後、企画に移り、広報を担当。当時金融機関ではメディアでの広告は制限されていた時でしたが、この異動の時期と同じくし、規制が緩和され、広告をより自由に行うことができるようになりました。そこで、できる限りの広報戦略を打ちました。ラジオCMや冠講演など、さまざまなお客様の層にあわせた広告を打つことの難しさと仕事することの楽しさを味わうことができました。その後、6年目に結婚で退職しました。
いわゆる寿退社です。
ー 学生時代を思い出していただけますか。
私は経済学科に入学しました。
男子ばかりの学科でした。
学科の学生250人の中で女性が5人だけでした。
高校の女子部から進学してきた私には、男子部に入ったような感じでした。*
*以前、明星学苑は中高が女子部と男子部、別々に学んでいました。
今はもうない6号館の大教室に一人で入るのに勇気が必要でした。
早く女子が来ないか待つような状態でした。
あの時は「もう大学には行きたくない」と親に嘆くほどでした。
そんな私の居場所は、6号館6階の経済学科の事務室でした。
学科事務室のお二人の助手の方には、大変お世話になりました。
1年生の時の居場所はもう一つありました。
硬式テニス部です。
テニス部時代
仲間とのたのしい場でした。
しかし、残念なことに体を壊してしまい、1年で退部しました。
その1年だけの部活でしたが、今でも女子の仲間とつながっています。
海外に移住している友達や地方に行ってしまった友達もいますが、年に1回は集まっています。「18歳の仲間」は続いています。
18歳の仲間たち
大学は勉強するところでありますが、仲間を作るところでもあります。
その仲間が大切だとつくづく思います。大学時代の友達とは、いろいろなことを一緒におこない、共に時間を過ごしてきているので、いまだに、相談に乗ってもらったり、たわいのないことを話したりと、リフレッシュできる、そんな大事な真の友達となっています。
ー 人のつながりとコミュニケーション、これは大事ですね。
人とのつながりは大切です。
それも、直接、生の人間同士であることです。
SNSや仮想空間ではありません。
そして、コミュニケーションは、ただ情報を送ることだけではないのです。
相手を思いやり、双方で理解しあうことを努力することであります。
ー キャリアコンサルタントとしての今後は?
立川女子高等学校が2025年で創立100年になり、そのイベントの準備もあり、学校は忙しくなります。
喜びと同時に悩み多き1年になるかもしれません。
やっとこの春から、コンサルタント業務は生徒との対応にも広がっていきます。
まずは、生徒たちの世間を見る目を広げていきたいと考えています。
周りが見えるように、話し合っていきたい。
そして、コミュニケーションの必要性と在り方を一緒に考えます。
人は同じではないから、互いを知るために、コミュニケーションが必要である。
それは、人とのつながりが続くことも知ってもらいたいためでもあります。
自分一人にならない、固まらない。
他人を排除しない、固まらない。
固まらない、固体でなく液体になれるように対話をしていきます。
今後も、教員との対話も続けていきます。
2024年4月15日、日野校20号館518会議室にてインタヴュー
以上
学校法人村井学園 立川女子高等学校 キャリアコンサルタント
18期経済学科(1985年3月卒業)
清水 敦子(しみず あつこ)
(旧性 蜷川敦子)